禅の悟りの第3ステージ「波乗りの悟り」

  • 2020.07.30 Thursday
  • 06:00



 E・キューブラー・ロスさんの『「死ぬ瞬間」と死後の生』(中公文庫)という本(講演集)を読んでいます。その中の興味深い箇所をまず紹介します。
 
 ロスさんは、体外離脱の実験に被験者として参加しました。すぐ離脱できたのですが、実験主任があまりに慎重なのに腹を立てて、2回目は、主任を出し抜いてやろうと、カラダを抜け出して、すぐ主任の干渉を振り切って脱走し、ここなら誰も私に気づかないだろうというほどの高みまで一気に上昇しました。でもその後のことはまったく覚えていないそうです。


 ただ肉体に戻ってきたとき、「シャンティ・ニラヤ」という言葉だけを覚えていました。聞いたこともない言葉だったのですが、これはサンスクリット語で、「平和の終の住処(ついのすみか)」という意味だということを後ほど知人に教えられたそうです。

 実験室から出た時、その場のみんなが「顔が輝いている!」、「二十歳も若返った!」などと驚いて質問攻めにあったそうです。それに、長年患っていた腸閉塞やヘルニアの疾患が消えてなくなっていました。

 でも、ロスさんは『これは分に過ぎた体験だわ。きっと反動が来るに違いない』と心配になったそうです。

 その日は山の上にあるゲストハウスに一人で宿泊しました。うとうとした瞬間、恐ろしく激しい痛みに襲われました。ロスさん(精神科医で主にターミナルケアを担当していました)は、『私はまさに、それまでに接した千人の患者の死を同時に合わせたような体験をしていたのです』と語っています。
 

息することも出来ず、あまりの痛さにのたうち回りました。一晩中苦しみましたが、その間に3度だけ小休止があり、息がつけました。
 
 そんな第1回目の小休止の時に、『せめて、誰かの肩(特に男性)に寄りかかることができたら、少しは楽になれるでしょう。肩に寄りかからせて下さい』と神様にお願いしました。すると、神様からは『ダメだ』という言葉が返ってきました。

 2度目の小休止の時には、『じゃあ、せめて誰かの手を握らせてください』とお願いしましたが、また神様からはまた『ダメだ』という言葉が返ってきました。

 3度目の小休止の時には、『では、せめて指先だけでもいいですから握らせてください』と懇願しましたが、またしても神様から非情にも『ダメだ』という言葉だけが返ってきました。そして、その後に最も激しい痛みと苦しみがやって来ました。

 その苦しみの中で、ロスさんはハッと気づいたのです。『闘いをやめ、反抗することをやめて、戦士であることをやめ、ただ平和におだやかに、自分からすすんでこの状況に身を任せさえすればいいのだ、この状況を素直に「イエス」といって受け入れればいいのだ』と。

 そして、ロスさんは、心の中で「イエス」と答えました。その瞬間、ふいに苦しみが終わったのです。呼吸が楽になり、肉体の痛みが去りました。ロスさんは『千の死に代わって、今度は「復活・再生」を経験しました』と語っています。

 その後の「復活・再生」の過程も興味深いものなので紹介しておきましょう。
 まず、最初にお腹が振動をはじめました。そして、その振動がカラダ全体まで広がり、さらに目に触れる身の回りのすべてのものが激しく振るえはじめ、さらにその振るえが広がって、ついに地球全体がすごいスピードで振動をはじめました(この体験は「霊的な身体」《この「身体」は世界も含むのです》の復活体験です)。

 目の前に蓮の花のつぼみが現れました。そして花が咲きました(「妙法蓮華」ですね)。その蓮華の花の背後に「光(蓮華に宿るのは「太陽神霊」でしたね)」が出現しました。


 ロスさんは蓮華の花を通って、その「光」に近づいてゆき、その「無条件の愛」につつまれながら、「光」と一体となりました。その瞬間に、自身や世界の振動が止み、深い静寂に包まれて深いやすらかな眠りに落ちました。

 これは強いバイブレーションを持つ霊的身体世界(タカミムスヒ)の次元を通り抜けてさらに高い意識次元(アメノミナカヌシまたアマテラスオオミカミ)の世界まで達したのです。

 目覚めた時、ロスさんは知っていました。『さあ、服を着て、サンダルをはき、山を降りなくてはならないわ(「出山の釈迦」ですね)。地平線から太陽が昇るときに、ソレが始まるのよ』と。
 
 山から徒歩で降りてゆく時のまわりの光景は愛と畏敬に満ちたものでした。一枚一枚の葉が、ひとひらの雲が、一本一本の草が、一匹一匹の虫が、道の小石たちでさえ、イノチを持って脈動しており、息づいており、愛しくて、愛しくてしょうがありませんでした。
 
 さて、私の体験も語らせてください。
私は45歳まで定職にも就かず、坐禅したり、真理の研究をしたり、神様の「筆の御用」をつとめたりしていました。42歳からの3年間に本が4冊出版されました(『天界の禅者大いに語る』、『悟』、『禅』、『禅の達人たち』いずれも潮文社)。
 
 ところが、突然奇跡的な運びで、45歳の時に福岡の進学校に就職が決まりました。奇跡的な就職であったというのは、たとえば採用試験を受けませんと断って受験せず、面接だけして大阪に帰って来たのに採用されたというようなことですね。そのほかにも、この就職に関してはとても常識では考えられないようなハッピー・ハプニングが重なったのですが、その辺の経緯は、すでのいろんなところで、書いたり、話したりしているので省きます。

 今から思い返せば、この就職は、私がこのまま「静水」の状態に執着していると魂の進化が止まり、神様が私に期待しておられる使命も充分果たせないまま地上世界から去らねばならないので、神様は強引に私を怒涛の荒波のなかに投げ込まれたのでしょうね。

 これまでの私は、世の荒波が恐くて、出来るだけ世の中と接触しないようにと、それで定職にも就かず、坐禅で「静水の境地」に浸って安らぎ、そこで真理の探究をして、何度も悟り体験のようなものもあって、もうこれでいいのだ、僕は他の人には出来ないような真理探究の道を進んでいて神様の使命を立派に果たしているんだと自己満足していました。

 ところが、アレヨアレヨという間に、世の荒波の真っ只中に放り込まれてしまったのです。


 進学校というのは、それはそれは大変な修羅場(戦いの場)で、ちょっと進学成績が落ちると、たちまちのうちにいろんな方面(保護者や同窓会や塾やマスコミなど)から非難があつまり、優秀な生徒も受験してくれなくなって、一気に存続の危機がやって来ます。
 

 ですから、先生方は常に危機感を持って、ピリピリとした緊張感を持って授業したり、戦々恐々の思いで学年・クラス経営をしているのです。

 そんな「常在戦場」の怒涛に投げ込まれ、翻弄されることになりました。何とか波に巻き込まれないように逃げ回って、家に帰ると坐禅してあの安らぎの「静水の境地」に逃避していました。

 そんな苦しい時期に、神様は非情にも「これからは坐禅することを禁止する」とお命じになったのです。なぜなんでしょう?当時の私には神様の意図がまったく理解できませんでした。

 もうイザという時に逃げ込める「こもり場」がなくなったのです(これは、ロスさんが神から拒否された「寄りかかる肩、握りしめる手や指先」のことですね)。

 そうなると、私にはもう学校という「荒波の場」しかありません。そこまで追い詰められて私はついに覚悟を決めることが出来たのです。『好きなようにしてください』と開き直り、荒波に身を任せることにしたのです。

 これはロスさんの『闘いをやめ、反抗することをやめて、戦士であることをやめ、自分からすすんでこの状況に身を任せさえすればいいのだ、この状況を素直に「イエス」といって受け入れればいいのだ』の境地ですね。

 「荒波」しかもう生き場がないのですから「荒波」から逃げ出したり、精神を安定させたいなどと悪あがきせず、もうそのまま「荒波」に巻き込まれる覚悟を決めるしかなかったのです。


 すると、たちまちのうちに、全身の緊張を解け、身心ともにリラックスできるようになりました。
「人間は浮くように出来ている」という当たり前のことをようやく思い出しました。緊張して、無駄な抵抗をすることさえやめれば、人間は大丈夫!決して沈まないのです。
 
 そのことに気づいてみると、私は「波にプカプカ浮いていました」


 どんな大きな波がやって来ても、力を抜いて、波に身を任せていれば、上下に左右に身を動かされながら、フラフラ漂わされながらも、私は大丈夫!「不動のまま」なんだということが分かりました。「静水」の中にいなくても、荒波のただ中でも「不動のまま」でいることが出来ることが分かった!のです。

 これが、悟りの第3ステージ「波乗りの悟り」です。


 これは「神流楽(かんながら)の境地」ですね。『どんなことが起ころうと神様の御心のまま、好きなようにして下さい。好きなように使って下さい』という境地ですね。これが私の現在の心境です。

 この後、さらに第4段階の悟りが続きます。私の使命を引き継ぐ弟子達はこのステージに足を踏み入れようとしているようです。


 この境地はロスさんの後半の体験にも暗示されていますが、それは次の文章で説明しましょう。

 さて、神様はどうして私に「波の世界に留まる覚悟を決める」という体験を強いたのでしょうか。それは、こういうことなのです。

 私は「菩薩の道」を歩もうという「志」を若い頃に立てました。


 「菩薩」とは、この世にひとりでも苦悩している存在(「人」と書かなかったのは、人だけでなく動物や植物や山や海などの自然も含めて苦悩から解放されなければ、まだ本当の救済ではないからです)がいれば、私は自分ひとりだけが彼等を見捨てて平安の境地に入るというようなことは決してしない。何度も地上世界に戻ってきて、最後に残った一存在を苦しみから解放できるようになる時まで働き続けよう、という志を立てた存在が「菩薩」なのです。

 ところで、この世の中で、坐禅という解放に至る道に出会うという幸運にめぐり合えた人はどれほどいるでしょうか。ほんの一握りにすぎないでしょうね。ほとんどの方が、坐禅なんかには縁がないまま一生を終えることになるでしょう。

 でも、じゃあそんな人には救いや解放はないのかというと、そんなことがあってはいけませんね。そんな人でも立派に生きがいのある、充実した喜びの人生が送れるはずなのです。

 大敬はそんな当たり前の人たちも、つまり波の世界にどっぷり浸かりこんで、それ以外の世界があるということにちっとも気付かないような人たちも、立派にしあわせな人生が生きられるように、そのような手助けすることが出来ねばなりません。ですから坐禅をストップして、ただ荒波に巻き込まれて生きるという数年間を送らねばならなかったのです。






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