ワンデイ・メッセージ109

  • 2020.09.20 Sunday
  • 06:00

この一生で仕上げようと思うからあせる。

あせるから行き過ぎる。 

行き過ぎるから失敗する。

この一生で出来ることなんてたかが知れている。 

だから、この一生は、次の生、また次の生に

花咲き、実るための準備期間だと思って、

しっかりイノチの根っこを養おう。

『挨拶(あいさつ)』について(その1)

  • 2020.09.19 Saturday
  • 06:00



以下の文章は、学校に勤めていた時に、中学2年の学年通信に掲載したものです(もとのものから少し増補しています)。

表題は「『挨拶(あいさつ)』について」でした。


パソコンの中に残っていたのを読み返してみて、なかなか面白い文章だったので紹介することにしました。すでに「しあわせ通信」シリーズのいずれかの巻に載せているかも知れませんが、続きの文章も思いついたので、まずはこの(その1)の文章から紹介したいと思います。


今日は、『挨拶』について考えましょう。

よく「朝、先生や友達と出会ったら、『お早うございます』と、しっかり挨拶しなさい」と指導されます。


でも、なぜ挨拶しなければならないのか、その理由はなかなか教えてくれません。私は、小さい頃から理屈っぽい人間だったので、押しつけるようにそんな指導を受けると、心の中で反発したり、そっぽを向いていたりしたものでした。


この学校出身の先生の話では、昔は「なぜ挨拶しなければならないのか、自分で納得できるまで挨拶しなくてもいい」と指導するすごい先生もいらっしゃったそうです。


まあ、これは極端な例ですが、そこまでいかなくてもたとえばこんな実験をしてみたらどうでしょうか。


三日間、挨拶を一切しない。次の三日間は元気よく挨拶する。そして、挨拶しない三日間と、挨拶した三日間で、自分が体験する(感じる)世界はどう変わるのか調べるのです。面白い結果が出そうです。


サッカー日本代表監督だった岡田武史さんが母校の早稲田大学でされた講演の記録の一節に、挨拶することの意味が語られていて『なるほど!』と思いました。


それによりますと、『挨拶とは、僕は君という人間が僕の世界(心)に存在することを認めますよ、許しますよ』という相手に対する合図だというのです。


ということは、もし出会った人に挨拶しないということは、『私は、君という人間が、私の世界(心)に存在することを認めませんよ、許しませんよ』という合図なんですね。だから、挨拶しないということは、相手に対してとても失礼に当たるし、挨拶されない人もとても腹が立つわけなんです。


AさんがBさんに挨拶しないとします。BさんはAさんに挨拶しても、いつも挨拶が返ってこないものだから、次第にAさんに挨拶しなくなります。これを先ほどの『認める、認めない』の議論をもとに考えると、Bさんは次第に『自分の世界(チーム)にAさんが存在することを認めなくなる、許さなくなる』ということですね。


もし、Aさんがクラスのすべての人に挨拶しないとすれば、クラスのすべての人がAさんがクラスに存在することを認めなくなる、許さなくなる、ということになってしまいます。


具体例をあげると、Aさんが困っていても無視する(無視とは『い無(な)いものと視(み)なす』ということですね)。意見を主張しても協力しない、そのようになってしまいます。


今度は、逆にBさんの方の態度を見てみましょう。

Bさんの態度にも至らぬところがあります。


Aさんに挨拶されないと腹を立てて自分もAさんに挨拶しないということになれば、Bさんの世界(心)のなかにAさんがいなくなります。その分、Bさんの世界(心)は狭くなったのです。心が狭くなると『徳』が減るのでしたね。無視する人が増えるほど、『徳』はどんどん減っていってしまいます。


(註)「徳」とは、インドの言葉で「グナ」といって、「現世で使用可能な心のエネルギー」のことです。「心のエネルギー」が多いと、こうありたいというあなたの想いがよく、早く叶うようになります。

また「心のエネルギー」は「心の面積」に比例し、「広い心」の人は、「徳エネルギー」が高く、「狭い心」の人は、「徳エネルギー」が少ないのです。

「高徳」の人とは「心のエネルギー」が高いレベルにある人で、人も世界も、この人の言うまま、思うままに、なぜか素直に動いてくれます。

「薄徳」の人では、その人が目指すものがどんなに正しくても、人や世界はその人が提案する通りになかなか動いてくれません。

「不徳」な人では、「心のエネルギー」がマイナス状態なので、その人が提案する意見がどんなに正しくても、なぜか人々や世界に反発を誘い、攻撃されてしまいます。


法華経というお経に常不軽菩薩(じょうふきょう ぼさつ)が登場します。


昔々、常不軽という、あまり頭がよくないお坊さんがいました。

師匠は『あいつには難しいお経は理解できないだろう』と、「常不軽や、みんな仏様なんだよ。Aさんも、Bさんも、犬も猫も、山も川も・・・、みんな仏様なんだから丁寧に礼拝しなさい」とだけ教えました。


常不軽さんは、頭は悪いけれど、まじめで忍耐強い人だったので、それから毎日、一日中、町の中や、山林や・・・を、ひたすら礼拝して歩き回りました。犬に出会うと『あなたは仏様です』と犬を礼拝し、人にあえば『あなたは仏様です』とその人を礼拝します。犬も人も気味悪がって逃げていったり、腹を立てて杖で打ったり、子供がバカにして石を投げたりしました。それでも常不軽さんはめげずに礼拝行を続けました。


こういう昔話をして、お釈迦様が弟子たちにいいます。「君達、実はこの常不軽こそ私の過去生(かこせ)だったのだよ。このように私はすべての人やモノを、ひたすら礼拝して回り、すべての人やモノを許し、仏として認める努力をしたことによって、今、こうして君達をはじめ、多くの人やモノから仏として認められる存在となれたのだよ」

 

どうですか。すべての人やモノを許し、仏として認める努力を続けた常不軽さんが結局、すべての人やモノから仏として認められ、礼拝されるようになれたのですね。ちなみに、この常不軽さんの『礼拝して巡る行』が取り入れられて、比叡山延暦寺の『回峰行』となりました。


そうすると、やはりBさんのAさんに対する態度にも未熟なところがありますね。


BさんがAさんに挨拶します。それに対してAさんは挨拶をしませんでした。それに腹を立てて、もうAさんに挨拶しないとしたら、これはBさんの負けですね。


挨拶とはギブ アンド テイクのものなんでしょうか。見返りを求めてするものなんでしょうか。そうではないんですね。


常不軽さんの例で分かるように、好きな人も、嫌いな人も、みんな自分の世界(心)に存在することを認める、許すことが出来る。挨拶はそんな器の大きな大人物(徳の高い人)となるための練習なのです。


自分がした挨拶に反応、効果があってもなくても、それは問題ではないのです。すべての人を認め、許すことができる、私がそんな人物となれますようにと、祈りをこめて挨拶するのです。


慧忠(えちゅう)国師(こくし)という偉いお坊さんがいました(唐の時代)。侍者は耽源(たんげん)応真(おうしん)という名でした。


ある日、国師は侍者を「応真」と呼びました。侍者は「ハイ」と答えました。

しばらくして、国師は再び「応真」と呼びました。侍者は「ハイ」と答えました。 

またしばらくして、国師はさらに「応真」と呼び、「ハイ」と答えました。(無門関第十七則)


私だったら、師匠に呼ばれて返事したのに、次の反応(用事をいいつけたりする反応)がなければ不安、不満に思ったり、バカにされたように思うかもしれません。また、何度も、何度も無反応に呼ばれ続けたら、きっと腹を立ててしまうでしょう。

 

でも、見返りを求めない、ただする返事(挨拶)であれば、腹がたつこともありません。何万回裏切られても、ひたすら「ハイ」、「ハイ」返事を続けてゆくだけのことです。


この禅問答をさらに探求してゆくと、この公案の本当の解答が見えてきます。


「応真」と呼び「ハイ」と答える。これでもう完結しているのです。


国師と耽源のいのちが、この応答の一瞬にひとつに融け合い、温かいものが通い合い、光に包まれているのです。彼らはそれを味わい、楽しんでいるのです。一度でいいのだけれど、なんだか一度で終わるのはもったいない。だから、二度、三度の応答になったのです。


女性が恋人を「ねえ」と呼びます。「なに」と彼が答えます。本当は何も用事があるわけではないのですけれど、二つのいのちが一つであることを確認したくて呼ぶのですね。


朝起きたら、外に出て東の空に向かって、大きな声で元気よく、「オハヨー」と叫んでみましょう。これは、『僕は、この世界を認めますよ。許しますよ』という、世界に対する合図です。そうしたら、世界はすぐに「オハヨー」と返事してくれるでしょう。


この返事は、『あなたという存在が、これから始まろうとしている素晴らしい未来に存在する意義を認めるよ』という、世界からのメッセージなのです。

ワンデイ・メッセージ108

  • 2020.09.18 Friday
  • 06:00

観音さまの真言「オン アロリキア ソワカ」。

意味は、「観音さまに帰依します。泥沼のなかであえいでいる私たちを救うために、

あえて泥沼に飛び込んで、泥だらけになりながら、

私たちを残らず泥沼から引き上げるまで、救いの御業(みわざ)を

決してやめないと誓いを立てられた、観音様に身を任せます」という意味。

ワンデイ・メッセージ107

  • 2020.09.17 Thursday
  • 06:00

法華経の最初の一句は「如是我聞」です。

これは「『如』であり、『是』であるのが、我々のイノチの

本来のあり方なんだよ、そんな『イノチの真理』を、

法華経では聞くことになるのだよ」という意味。


『如(にょ)』とは、「ごとし」で、決め付けられないという意味。

イノチは 絶えず流れ流れてやまないもので、

どこにも固着停滞しないというのが本来の姿。


『是(ぜ)』とは、「今・ココ」の一点にイノチの全体重をあずけて、

コレ・コレと一歩・一歩ドッシリ歩んでゆくのがイノチ本来の姿だ

という意味。


つまり、どこにも固着せず、流れ流れながら、

今・ココをピタッピタッと決めて生きてゆく、

そんな姿がイノチ本来の正常な歩み方なんだよと教えるのが

法華経なのです。

ワンデイ・メッセージ106

  • 2020.09.16 Wednesday
  • 06:00

法華経の最後の一句は「作礼而去(さらい にこ)」、

これは「礼をなせば去る」という意味。

過去の辛い思い出や現在の嫌な人との出会いや出来事、

それらは「ありがとう、君たちのおかげで私は成長できました」と

感謝できるようになった時、それらワザワイさんたちは使命を終えて

サラリッとあなたから離れて去っていってくれる、

そのことを「作礼而去」は教えて下さっているのです。

「ありがとう」が「さよなら」なのです。

ワンデイ・メッセージ105

  • 2020.09.15 Tuesday
  • 06:00

あなたはもう他の人と自分をくらべる必要はありません。

スミレとヒマワリを比べる人はいません。

スミレの時はスミレが最高に美しいし、

ヒマワリの時にはヒマワリが最上なのです。

ともに大地(いのち)が生み出したもの。

大地がその美の表現を見て楽しみたいと創り出した、

かけがえのない尊い存在なのです。

大敬先生よりご連絡(本日の投稿は下にあります。)

  • 2020.09.14 Monday
  • 10:38


ご連絡

大敬のパソコンの調子が悪くなったので、

回復するまで、大敬に連絡や質問などが

あれば、ブログのアドレスにメールしてください。


ohisamanonakama@gmail.com


立花大敬

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    『ムダ骨折り』

    • 2020.09.14 Monday
    • 06:00




    今回は、百丈(ひゃくじょう)禅師(唐の時代の方)とその弟子の僞山(いさん)禅師のことを中心に書いてみたいと思います。


    現在禅の道場で実践されている修行の規則、朝から晩までの日課や年間の行事などの修行規則や生活方式は百丈禅師が定められ、『百丈清規(ひゃくじょう しんぎ)』としてまとめられました。

    百丈さんは、とにかくマジメな方で、八十歳を過ぎても、若い修行僧にまじって「作務(さむ)」に出られていました。「作務」とは禅寺における肉体労働のことで、「作務衣(さむえ)」というのはご存知ですか、あのような作業服を着て働くのです。


    「作務」は清掃だけでなく、畑仕事をしたり、森林の世話をしたり、薪(たきぎ)を作ったり、必要になれば倉庫などを自分たちで建てたり、井戸を掘ったり、水路を作ったり、道路を切り開いたりというような作業も自分たちで行っていました。

    ある日、老師の健康を心配した若い弟子たちが、老師の作業道具を隠してしまったのです。すると、老師はUターンして「方丈(ほうじょう)」に戻ってゆかれました。


    「方丈」とは住職の自室のことです。1丈四方の大きさだから「方丈」といいました。だいたい4畳半ほどの広さですね。鴨長明に『方丈記』という作品がありましたね。

    そして、その日から食事されなくなりました。弟子が心配して理由を尋ねると、「一日作(な)さざれば、一日食(くら)らわず」とおっしゃったそうです。有名な格言になって残っていますね。

    今日一日働かなかったのだから、今日は食事する資格がないというわけですね。


    まあ、百丈さんはそんなマジメな方だったのですが、ある日、友達の司馬頭陀(しば ずだ)がやって来ました。この人は「観相」の名人だったそうです。人相ばかりでなく、地相なんかも観るのです。

    そして、百丈さんに言うんです。「おい、すごい山を見つけたぞ!あの山に道場を建てたら千五百人の弟子を養うことが出来る」


    百丈さんは言うんです。「そうか、じゃあワシが行こうか」

    司馬さんは言います。「いや、君じゃだめだよ。あの山は『肉山』だが、君は『骨人』だからな。君が行ったら五百人ほどしか弟子は集まらんよ」

    百丈さんは生き方も精神も骨太でしっかりしているんだけれど、包容の器というものが小さいんですね。

     でも、誤解しないで下さいね。器の大小は「悟り」の深さ・高さとは関係ありません。大きいお椀に盛られた水でも、草葉の露でも、満月がそのまま同じように映りますね。小さな水だから月の半分しか映らないというようなことはありませんね。

    ただ、お月様が地平に近い、低い位置にあると、場所場所でお月様が水面に映ったり、映らなかったりしますね。


    この月の高低は、その人の「志」の高低をたとえているのです。

    たとえば、野球選手がいて、その人がいいプレイヤーになりたいという「志」を立てて、真剣に修練していると、ある時、ふと開眼します(悟りが開けること)。

    つまり、その選手の器の水に満月が宿る(映る)ようになるのです。


    そうすると、その選手は、これまで抱えていた自身の能力の限界を超えたようなプレイが楽々と出来るようになります。

    しかし、その選手がこの悟りを使えるのは、野球という競技の場面だけです。人生の他の場面ではこの悟りは使用出来ません。だから、引退した後、道を踏み外してしまうという往時の名選手も出てくるわけです。

    なぜなら、その選手が持っている「志」は、「いいプレイがしたい」という小さくて低い、個人レベルのものなので、野球以外の他の場面では、お月様は水に映らないからです。

    もし、「世のため、人の幸せと成長のために尽くしたい」というような高い「志」を持つと、お月様は空高く輝いているので、人生のどんな場面においてもその人の器の水にお月様が映りますね。このような高い志を持った人が悟ると、人生のどんな場面においても悟りを使用することが出来るようになるのです。


    しかし、「いいプレイがしたい」とか、「お金持ちになりたい」いう程度の小さい、低い「志」を持って修練すると悟りは比較的容易に手に入りますが、「世のため、人の幸せと成長のために尽くしたい」というような高い「志」を抱いて修練しても、なかなか悟りは開けません。

    ですから、あせらず、黙々と、手っ取り早い成果を求めず、一生でだめなら、次の生で続きをやるというぐらいの覚悟と粘り強い修練が必要なのです。


    百丈さん自身にはその山に移る資格がないということなので、百丈さんの弟子達のうちから、その山にふさわしい人物を選抜しようということになりました。

    司馬頭陀は、弟子達を順に目の前で歩かせます。その歩く姿を観相して「肉山」にふさわしい人物を見出そうというわけですね。そして、選ばれたのは、「典座(てんぞ)」という食事係を担当していた僞山(いさん)という若年の弟子でした。


    抜擢されたといっても、お寺を建ててくれ、経済的な面で援助してくれる檀家も紹介してくれて、準備万端整えて「さあ、行ってきなさい」と送り出してくれるというような、そんな虫のいい話ではないのです。

    ただ単身で出かけて山に分け入り、その辺の木を切り、枝葉を重ねて屋根にして掘っ立て小屋を作り、木の実や野草やキノコを採って食べて生活するわけです。


    そのようにして、嵐の夜も、雪の朝も、人に知られず、鳥獣を友として、何年間もそこで黙々と坐禅修行していました。

    すると、ある時、猟師が道に迷ってふらっとやってきて、こんなところにお坊さんがいるということに気づきました。話してみるとなかなか出来たお坊さんのようです。


    そこで、知り合いにその和尚の話をして、次第に僞山さんのウワサが広まって…、四十年年後には、何と!千五百人の弟子を集める立派な大道場が出来上がっていたのです。

    四十年ですよ、すごく息が長い話ですね。その間に死んでしまうということもあり得ますね。人知れず、ひっそり消えてゆく。そうなっても構わない、文句なしに黙って死んでゆくぞという覚悟を決めておられたのですね。中途で終わっても、続きは次の生(しょう)でやればいいのですからね。


    僞山さんには及びもつきませんが、大敬の場合は、四十歳代後半で発心して、しあわせ通信をはじめ、福岡で禅の会をはじめました。

    月に一回、原稿用紙20枚ほどの文章を書いて、はじめは3人の人にコピーして送っていました。そのしあわせ通信を、その3人の人がコピーして知り合いに送って下さり、次々増殖して、全国のたくさんの人に読まれるようになりました。


    教師という本業がありますから、執筆の時間はなかなか取れません。日曜日や祝日が主な執筆の時間で、ですから私は自分のための趣味や楽しみの時間というものを持ったことがありません。

    月に一度、20枚の原稿を書き続ける、それをもう20数年間も途切れずに続けているわけですが、これは結構大変なことなのです。

    書いたからといって、一円の収入になるわけでもありませんし、その文章が後の世に伝わり残り、読まれ続けるという保証もまったくありません。何とも張り合いのない話なのです。

    白隠禅師は、「ソレ(禅の究極の悟り)は、井戸に次々雪をほうり込んで埋めようとするようなもんだ。そんな『ムダ骨折り』を(雪は投げ入れるとすぐ融けてしまうので、いつまで努力しても決して井戸を雪で埋めることは出来ません)、汗水流してアホウ仲間と一緒に喜々としてやりぬいてゆく、それが禅の極意なんだよ」とおっしゃっています。


    「世のため、人のしあわせのために…」という志がしっかり定まって、その行動に何の疑いも持たずに、ひたすらやりぬいてきたというような、そんなカッコいい話ではないのです。

    『面倒だなあ』と、ちっともやる気がしない時もあれば、職場や家族で色々トラブルを抱えていて『それどころではない』という気分の時もあります。

    そんな時も、いったん書き始めたらそれらを引きずることなく、きれいに忘れ去って書くことに没頭しなければなりません。そうでない文章には「お月様の光」は宿らないからです。


    私は、40歳代後半に、志を立てて、本業の仕事以外に、もう一つの仕事、世のため、人のために尽くそうという行動をスタートしましたが、現在40歳代あるいはそれ以上の年齢になっていらっしゃるお仲間の皆さんも、わたしのように、どんな小さなことでもいいから、世のため、人のためのボランティア的な行動(仏教では「ダーナ(布施)」といいます)を選び取って、本業以外にもう一つの仕事をスタートして欲しいですね。

    そんなダーナ(ボランティアの行動)を、成果を求めず、見返りや反響を求めず、黙々と、淡々と、取りあえず20年間続けて欲しいと思います(生が尽きたら、次の生で続きをやってください)。


    道元さんはこうおっしゃっています。「雪の山の奥に、人知れず梅の花が一輪咲いて香っている。その一輪の花の香りと光は実は世界全体に届いて、そして世界に平安をもたらせている。梅の花も知らないし、世界の人々も気がつかないことなのだけれども、そうなのだ」

    自分のささやかなダーナの実践が、世界を癒しの香りで包みこみ、人類や他の生類に平安をもたらしている。自分にはそんな自覚はないけれど、他の人にも分からないことだけれど、道元さんやお釈迦様がそうおっしゃっているのだから、きっとそうなのだと信じて、この実践をやり続けましょうと決めて、とにかく20年間やり通してごらんなさい。その果てに、きっとあなたのまわりに「大らかで、明るくて、安らぎに満ちた世界」が展開してくるでしょう。「大敬先生のおっしゃることを信じてやり続けてよかったなあ、老後にこんなに有難い人生が開けてくるなんて…」ときっと喜ばれることになるはずです。私はあっちの世界であなたの喜ぶ姿を見て、その喜びを共有したいと思います。

    ワンデイ・メッセージ104

    • 2020.09.13 Sunday
    • 06:00

    天地生成の元気、これ我がいのちなり。

    動物の転生について

    • 2020.09.12 Saturday
    • 06:00

    ブログにお便りしてくださったIさんが、三代にわたって、同じ犬種の、同じ名前のワンちゃんを飼っておられて「第1代目が次々生まれ変わっているのかも…などと勝手に想像しています」と書かれていました。

    そこで、今回は動物の転生について少し考えて見ることにしました。


    まず、基本的には動植物には転生はありません(なかったのです)。

    たとえば、イヌには「イヌ」という、一つの魂があるだけなのです(だったのです)。そこから個々のイヌが次々と地上に誕生して(「イヌ」という魂を進化させるために、地上にたくさんの個体のイヌを派遣していろいろな体験をさせるわけです)、地上での生を終えて、またその「イヌ」という一つの魂に帰っていって、地上でのさまざまな経験をその「イヌという魂」に送り届けた時点で、個的存在としてのイヌは消滅します(していました)。


    複数形がない動物(たとえば、sheepなど)が多いですね。個々のいのちとしての動物は本来一代限りの仮のものなので複数形がないのです。それに、転生もしないのです(しなかったのです)。


    しかし、イヌのように、人との関わりが強くなっている動物では少し話が違ってきます。

    人は強い「意識」を持っていますね。「いのち」というのは、「意(い)の霊(ち)」のことで、「意」が繰り返し注がれるモノや動植物には、「意」を注いだ人の「いのち」が宿るのです。


    だから、植物でも、神社のご神木のように、沢山の人の祈りの意念を宿していのちを持つようになり、意志を持つようになって、霊的な力を発揮できるようになったりします。


    毎日、丁寧に、感謝の気持をこめてトイレを掃除させてもらっていると、その人の善念がトイレに宿って、その人や家族をまもる「トイレの神さま」になったりします。


    ですから、愛情をこめてイヌを世話し、強く関わってゆくと、飼い主さんが、そのイヌに注いだ「意」が、そのイヌに植え付けられ、芽生えていのちを持つようになります。

    地上の生を終えたイヌはまず「イヌ」の魂に復帰しますが、人がそのイヌとの思い出を大切にしてずっと保持していると、そのイヌの個性は消滅してしまわないで、飼い主に引き寄せられて死後もずっと個性を保持しているということが出来るようになるのです。


    また、別のイヌの肉体に宿って、再び同じ飼い主のもとにやって来て関わりをさらに深めてゆく、転生を繰り返して個性を進化させてゆくということも出来るようになってきます。

    イヌが何度も転生して、同じ飼い主のもとに帰って来るというストーリーの映画(『僕のワンダフル・ジャーニー』)がありましたね。

    臨死体験などで、アチラの世界に行った時に、死んだはずの飼い犬がシッポを振りながら走ってきたなどという報告もあります。


    このように霊界で出会うイヌは、本来「イヌ」の魂に復帰して憩っていたのですが、その人が霊界にやって来たので、その人の意識の引力に引き寄せられて、喜び勇んで「イヌ」の魂から走り出して、生前の個性のままの姿でそこまでやって来たのです。

    そのように、人と関わるようになって、人の意識の引力に引っ張られて、イヌの個性は「イヌ」の魂に帰っても消滅してしまわないで、個性を存続させながら転生も出来るようになってきたのです。

      

    イヌは飼い主に似るといいますね。それは正しくて、飼い主を手本にして、その方向にイヌの個性は進化してゆくのです。

    以上は動物の場合ですが、人の場合はどうだったのでしょうか?


    私は「金平糖大作戦」という人類の魂の進化モデルを皆さんに提示しました。

    私からもう何度も聞いたよという方が多いでしょうから簡単な説明だけにしておきます。『ココロとカラダを優しくほどく−立花大敬さんの坐禅 入門編』(バンクシアブックス)などに解説しているので、まだご存じない方はお読みください。

    はじめは人類はまるい一つの魂でした。しかし、残念ながら私は小さな魂(小玉さん)だったという事に気づき、もっと大きく成長したいという(大玉さんになりたい)という「激しい成長の意志」を持ちました。


    そして、進化成長のために作戦を立てました。

    まるい魂の本体からたくさんのツノを生やして、そのツノに「激しい成長の意志」を埋め込んでおくと、それぞれのツノがながくなり、ふとくなって、ツノとツノがくっついて融合一体化するようになり、ついに再びまあるい魂に復帰する。しかも、スタートした時点の小玉さんは大玉さんにまで成長している、というのが金平糖大作戦です。


    その作戦を実行に移したとき、まず最初に遭遇した難問は、ツノがうまく育たないということでした。

    ツノが芽生えても、すぐしぼんで本体の小玉に戻ってきてしまうのです。本体のまるい魂(エデンの園ですね)の方が、よっぽどあったかくて、居心地がよかったからですね。

    そこで、小玉さんは、ツノの根元にフタをして、もう戻って来れないようにしました(エデンの園からのアダム・イブの追放ですね)。

    そこで、ようやくツノは肉体が死んでも、もう本体(小玉)には戻れないので、しかたなく次の肉体(ツノ)に宿るという転生がはじまり、それによって、前世で学んだ経験、知識が、次の人生に生かして使えるようになり、一気に魂の進化が加速されることになったのです。


    さて、その際に小玉さんはもう一つ「手」を打ちました。

    宇宙に呼びかけて、他世界(星)の魂の進化レベルが高い存在(宇宙人(神)ですね)を地球に呼び寄せて、まだ幼いツノ(個々の人のこと)の面倒をみてもらうことにしたのです。お経では「他世界から地球にやって来た菩薩たちが人類を導いてくれる」などと表現されています。

    ちょうど、飼い主と飼われている犬との間の係わり合いのような関係が、宇宙人(神)とまだ魂が幼い段階だった人との間に生じたのです。


    そして、その関わりによって、宇宙人(神)の愛の引力によって、人は死んでも肉体がそうであるようにバラバラに分解してしまわないで、「意識」は存続して地上世界に留まることが出来るようになり、転生しながら進化成長してゆけるようになったのです。

    いまでは、人の魂の進化とともに、人とペットの関わりのような支配、隷属の関係ではなくなり、人の自主性が尊重されるような関係に変わってきています。神と人は支配と隷属の関係であるとする宗教は、その旧い時代の「神・人関係」を反映しているのです。


    また、地上で普通の人より成長が早かった地球出身の先駆者たち(お釈迦様やイエス様や文殊菩薩や観音菩薩など)がようやく続々と育ってきていて、進化が遅れている人々を導けるようになってきたので、他世界(宇宙)発の神々は前面指導からは退いて、背後から宇宙全体の進化という、さらに広く遠い視野から、地球上の菩薩、神仏や人々に進むべき方向を示すという役割を分担するようになってきています。

    法華経に、宇宙から来ている菩薩たちが、お釈迦様に「私たちが地球に残って人々を指導しましょうか」と申し出たところ、「ありがとう。でも大丈夫だよ。私たちは私たちだけ(地球人だけ)でちゃんとやってゆけるからね」とお断りするという話が載っています。